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今、汐留の街は高層ビルに囲まれ、あたかも人の住んでいないビジネスオフィスビルばかりで埋め尽されているように感じてしまう。
ところが、実際は多くの人々が住み、そしてこの街はそこに住む住民達が将来の汐留を、どのようにして孫や子の世代に伝えていくか、真剣に取り組んだ結果生まれた街なのである。
まず汐留の区画整理地区の形に注目して頂きたい。
この地区が、明治維新と関わりがあったことに気づく人はいないだろう。
この地は、仙台藩伊達家、会津藩松平家、竜野藩脇坂家の屋敷があったところである。
維新にあっては徳川幕府方ということから、新政府軍と戦わざるを得なかった藩である。
そのようなことから、維新後その屋敷跡地は、新政府の管理地として接収され、明治新政府にとっては公共用地として自由に使える土地となったのである。
その後、明治新政府は、開化の証しとして鉄道を開通させることとした。
その際、大きな課題となったのが、用地の取得であった。
何かと入用の多い新政府としては、用地買収は極力少なくしたかった。
そこで、鉄道ルートは海岸線を埋め立て、駅についてはすぐに使える旧大名地などを対象にし、ここ汐留の地に、東京側の出発駅である「新橋駅」が選定された。
仙台藩や会津藩という言わば自由に使える土地があったからこそ、鉄道が明治維新から5年という極めて短期間のうちに完成し、開通にこぎつけることができたのである。
実はこのことが、今の汐留の「日本版BID」組織の組み立ての原点となったのである。
旧汐留貨物駅のあった山手線東側地区が、周辺の道路とは独立した、言わば陸の孤島のような、非常にアクセスが良くない、島地となっていたのである。
そもそもこの汐留地区の区画整理計画は、国鉄の民営化時に、国鉄清算事業団用地として、売却の対象地となり、その際に港区と東京都と国鉄清算事業団が、将来の街のあり方と清算方法を検討する中で計画されたものである。
そのため、山手線西側地区は東側の旧汐留駅地区の交通アクセス改善のために、区画整理地区に組み込まれたものである。
そのことから、山手線西側の地権者にとっては、正に晴天の霹靂の如く突然の話であった。
当然、この地区の区画整理も困惑と不安から始まったのである。
この地区は、震災復興・戦災復興も行われ、何でまた区画整理なんだという気持ち、更には東側の為の道路として用地を減歩され、通過交通だけが増え、自分達にとっての街づくりとは、いったい何なんだという思いがあったのは当然である。しかし、この街には素晴らしきリーダーがいたのである。
このまま汐留駅(旧新橋駅)の清算売却のために翻弄され、大したメリットもなくこの計画が決まってしまったら、この街はそうなってしまうのだろう。
どうせやらなければならないのであれば、これをチャンスにと捉え、もう一度街づくりが出来る機会として、みんなで考えてみよう。そう言って話し合いの先頭に立ったリーダーがいたのである。
それが、汐留地区街づくり協議会・会長の大塚明さんである。
大塚会長たちと最初に話し合ったことは、この汐留の地がどのようにして出来て、どのような経緯で今に至っているのか、そして将来どのような街にするのか、孫や子の代にどんな汐留を引き継いでいくのかということであった。そのためには、この土地が背負ってきた歴史を踏まえ、その重みを認識した上で、街づくりをしなければならない。それでなければ、後世に対する責任を果たせないことをひしひしと感じたのである。
特に、都心部に於いては、ビルの採算性についてのみが重要視される傾向があり、区画整理の事業計画もこの点に力が傾注されてしまう。
しかし、街はハード面が出来上がってからが、本当の街づくりであることを認識しなければならない。
将来の街をどのように描くのか、大きな課題であった。
折りしも当時はバブルがはじけた後で、渋谷、新宿、池袋等、どの街にもホームレスが溢れていた。
ゴミは散乱し、チュウーインガムは噛み捨てられ、煙草の吸殻などお構いなしという状況であった。
旧来の住民の皆さんが組織した「汐留土地区画整理事業・汐留地区対策協議会」での勉強会のテーマに、出来た街をどう育てていくかということが大きな柱となっていた。
元々、鉄道発祥の地である新橋駅は、銀座発展の要であった。
鉄道馬車が浅草まで開通したのも銀座通りだったし、路面電車も地下鉄も同様である。
その銀座通りを見ると、日本一の通りとして今日に至るまで、所謂銀座の旦那衆が街をきちんと管理して来た。
ホームレスは勿論のこと紙くずや煙草の吸殻も落ちていない。
夜になっても銀ブラをしていても安全である。
ところがそれに比べて当時の新宿の街は、淀橋浄水場の跡地の開発として、都庁をはじめとして日本の一流企業が立地し、街づくりとしては成功しているように見えている。
個々の高層ビルはきちんと維持管理されている。
しかし実際には、夜になって公園を歩くのは怖く、人通りは閑散として、割れた瓶や飲み捨てられた酒の瓶や缶、溢れかえるゴミ、まるで映画で見るニューヨークのようである。
みんなの話し合いで街は出来てからが本当の勝負で「銀座にするか、新宿になってしまうか」、その分かれ道はいまだということになった。
誰もが、お隣の銀座を目指したのは言うまでもない。
汐留地区対策協議会は、従来からこの地区に住み続けてきた約80人の住民で組織されていた。
その後、地区の大半の面積を占める山手線東側の土地所有者である国鉄清算事業団を加え、「汐留地区街づくり協議会」と拡大された組織となったが、当然利害は一致しない。
国鉄清算事業団の目的は、土地の高値売却であり、あまり多くの条件が課せられると応札価格に影響してくる。
しかし、地区住民にとってはこの地で生活再建を図り、将来に継続する街を創らなければならない。
一過性の派手な花火を上げて一時期注目を浴びても、街が成長し熟成されて行かなければ、結局街の価値は下がり、誰も見向きもしない、誰もが立ち寄ってもくれないような街になってしまう。
すなわち、街のグレードを決めるのは建物の派手さや新規さ、注目度でなく、いつ誰が行っても街自体が美しく優しく、暖かく迎えてくれる、そんな街を継続していかなければならないのである。
言わば、汐留駅跡地に入ってくる新住民という進出企業に、この街を守り育てていこうという気持ちになってもらえるだろうか、ということが一番の心配であった。
そこで、国鉄清算事業団の売却条件には、落札者は汐留地区全域を一体とした「汐留街づくり協議会」に加入することを盛り込んでもらうこととした。
建物の中だけがきれいな新宿の二の舞は許されないと考えた。
私達の合言葉は「汐留を第二の新宿にするな!」であった。
そんなことをすれば、江戸時代から続くこの汐留という地を、平成という時に預かった私達の責任が果たせないと思ったのである。
汐留町会の会長、大塚さんが、まだ町会員の皆さんに当惑と混乱が会った時に、いち早く将来を見据えた、新たなる汐留の街のあり方をどうするか、皆さんが議論を実りある方向に導いたのである。
この時点で、東側の清算事業団のスケジュールは、国の方針として決まっており、西側の対策協議会の方々の意識のまとまりが遅れると、落札事業者を含めみんながそれぞれバラバラの街づくりをしてしまい、正に新宿のようになってしまうと考えられた。
汐留の今日があるのは、まずそこに住む住民によって、地区全体の一体性が永続されるように願った成果だと言える。
そもそも汐留地区の区画整理は、国鉄清算事業団用地という大規模開発地と、30㎡にも満たない小規模地権者を含む山手線西側地区を、同時に再開発地区計画で括ってしまった。
そのために、非常にアンバランスな街づくりになりかねない事業であった。
再開発地区計画では、その最小宅地面積を500㎡以上と定めており、西側街区にその面積に達する地権者は企業を除いて一人もいなかった。
最初から西側の方々の土地利用は、再開発地区計画に課せられた規制ばかりで、容積の割り増しを目指すことすら出来ないような状況であった。
また、東側に配置された道路は、宅地規模が大きい事から幅が広く、全ての街区が容積率として大規模な道路の恩恵を受けられるのとは異なり、西側街区では都市計画上の容積率すら使えないという状況であった。
私たち現場担当者にしてみれば、全てが制度上の隘路に陥ってしまい、暗中模索の状況であった。
あまりにも違いすぎる地区を一つにし、更にはその両方の地区の一体性を確保し、将来にわたって両方の地区を発展させなければならないのだが、まったく不可能だと思われた。
そのような時、都内で初めてとなる「街並み誘導地区計画」が決まったとの情報が寄せられた。
ようやく汐留地区を一つの地区として、街づくりが行える手法が見つかった瞬間であった。
この手法は、壁面積の後退により前面道路幅による容積率規制を無くし、いわゆる斜線規制の適用も除外するというものである。
いよいよ平成8年に最初の仮換地指定が行われ、進出事業者となる落札者が決まり、街づくり協議会も賑やかになってくる。
新しい地権者を加え将来の街をどうするか、本格的な議論の開始である。
私たちは、新しい地権者にも、地区の歴史から共有していただくこととした。
そうしないと、この街の将来は無いと考えた。
この段階で、汐留の現地は仙台藩や会津藩の遺跡調査がようやく終わったばかりで、街の形すら予想がつかない状況であった。
出来上がった街をどう継続していくのか、どう育てていくのか、この段階で落札した進出企業に対し具体的に提示する組織案が固まっていたわけではなかった。
どうしたらきれいで暖かい賑わいを続ける街を、次の世代に引き継げるのか、第2の新宿にしないためにはどうしたらいいのか、理想だけで解決の糸口さえなかったのである。
そんな折、長くアメリカに住む友人との話の中から、「今のニューヨークは以前のように怖くないぞ、夜だって女性が一人で歩いているくらいだ」との話があった。
そんな信じられないような話があるのかと、その友人にその訳を探ってくれるようにと依頼した。しばらくしてもたされた情報が「タイムズ・スクエアBID」だった。
当時、日本には文献資料がほとんど無かった。
日本で集められるだけの情報を頼りに、色々と検討したが、分からない事だらけであった。
これでは埒が明かないと、直接ニューヨークの「タイムズ・スクエアBID」に聞くしかないと、現地に連絡を取り「汐留街づくり協議会」でBID調査団を編成し、派遣する事となった。
今でこそ、BIDといえば汐留と言っていただけるようになったし、街づくり関係者の誰もがBIDを理解するようになったが、当時、BIDという言葉は、汐留の中だけで通じる隠語のような感じであった。
平成12年の4月、新しい地権者である東側街区の企業の皆さんも含めた総勢15人が、見知らぬ土地の見知らぬ街の管理制度について調査にでかけたのであった。
その結果、多くの情報を得る事が出来た。
「タイムス・スクエアBID」は、地域内の不動産所有者が組織して、以下の様な取組みを行っていた。
●治安維持、ガードマンによる警備(午前9時から深夜12時まで)
●清掃、衛生、清掃活動(午前6時から午後10時まで)、落書きの消去、照明灯の塗装など
●出版、広報、レストランガイド、エンターテイメントガイド、ガイドマップ
●コミュニティー・サービス、景観やパブリックスペースの改善、パブリックアートの設置、 ホームレス対策
●観光の振興を目的にしたビジターズ・センターの運営、BID情報の提供、ブロードウエイ・チケットや観光ツアーの販売、インターネットアクセスの無料提供
これらの活動の資金は、受益者である不動産所有者が負担するのであるが、これはニューヨーク市が徴収し、一定の補助金を加えてBID組織へ交付される。
正に、官民のパートナーシップによる手法であった。
このような経緯を経て、有限責任中間法人「汐留シオサイト・タウンマネジメント」が結成された。
ランニングコストは、行政と地権者が負担し合い、地元が主体となって公共施設の維持管理を行うという仕切りになった。
行政側の負担は、同程度の街路にかかる維持管理費を標準として算出した。
もちろん、汐留では様々なグレードアップが実施されており、これらの維持管理費増額分がシオサイト側の負担となる。ランニングコストは、圧倒的に地下歩道部分にかかっている。
地下歩道の清掃は、3回/日、路上清掃は1回/日行うなど、維持管理のレベルは都との間で協議している地元が日常維持管理を行うことで、きめ細やかな管理が可能となった。
ニューヨークのBIDのように、清掃員が街の案内や治安活動をするのが理想で、シオサイトマーク入りのユニフォームを着用し、街の案内等にも対応している。
こうしたことで、道路の清掃などだけではなく、維持管理全体は一般的な行政水準よりも高いレベルで実施されている。
会員の費用負担を、31ha全体で1つの費用負担ルール(最大許容述べ床面積比率に応じて負担)に定められたことが、その後の活動をスムーズに進めたと思う。
当初、協議会ではなく、NPO法人格を取得しようとしたが、議決権を有する会員の限定が出来ないこと(年間数億の財源が必要で、費用負担者が地権者であることの関係)。
NPO法の趣旨から活動区域が汐留地区に限定できないことから、NPOか中間法人かの大議論の末、最終的に中間法人を選択したのである。
今、汐留の街は地域住民が自ら管理していると、胸を張って言える街になったと思う。
これにはいくつかの成功の要因があると思うが、地域内がバラバラにならずに済んだこと、いわば外様とも言える土地購入者を一体化させることが出来たこと、更に土地購入者が将来の街に住む企業人として、責任ある立場になれたこと、将来につながる組織が出来上がったこと、そして、官民が課題を共有し、大いに議論出来たことだと思う。
その地道で大いなる議論の最中、無念にもこの街の完成を見ずに鬼籍に入ることとなった、地元住民権利者の林さん、大規模デベロッパーの白石さん、施工者東京都第三区画整理事務所の高橋さん達に、日本版BIDの成功を報告し、この項を終わりたいと思う。
元・東京都第三区画整理事務所換地課
現・江戸川区土木部長 土屋 信行